日本敗戦80年「特別弔慰金支給法」改正をうけて 「忘れられた皇軍」を忘れられたままにしてはならない - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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日本敗戦80年「特別弔慰金支給法」改正をうけて 「忘れられた皇軍」を忘れられたままにしてはならない

【投稿日】2025年7月8日(火)

 「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法の一部を改正する法律案」が、3月31日に国会で成立した。1965年に創設された「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金支給法」に基づいて節目ごとに支給されてきた「特別給付金」を「戦後」80年の節目の年に継続、増額するというものだ。その主旨は「先の大戦で国に殉じた軍人軍属等の方々に思いをいたし、戦後20年、30年、40年、50年、60年、70年といった特別な機会をとらえ、国として弔慰の意を表すため、一定範囲の遺族(子、兄弟姉妹等)に対して特別給付金を支給」(厚生労働省)するというもの。支給内容は額面27万5千円、5年償還の記名国債となっている。
 KMJは本法の改正にあたり、旧日本軍人軍属であった朝鮮人・台湾人については一切、顧みられていないことに対して、強く抗議する。「先の大戦で国に殉じた軍人軍属等の方々」は日本人だけではない。本法改正にあたり、対象外となっている旧植民地出身者の元日本軍人・軍属とその遺族も対象とすべきだ。

「国家賠償の精神」から排除された旧植民地出身者

 1937年に日本が中国への侵攻を本格的にはじめた日中戦争開始の翌年より、植民地朝鮮で「陸軍特別志願兵制度」(1938年4月3日)が発足。以降、皇民化政策がとられ、朝鮮語授業を廃止、「皇国臣民の誓詞」の唱和、創氏改名を強要し、興亜奉公日を制定するなど、「内鮮一体」(註)の政策が推しすすめられた。それらはすべて徴兵への準備であった。1943年、兵役法が改正(法律第四号)され、8月1日から朝鮮に徴兵制が施行。つづいて日本で「学徒出陣」が決まった直後に、朝鮮でも学徒出陣が実施された。このようにして、日本の敗戦までに朝鮮人約11万人が軍人として、約12万人が軍属として旧日本軍に編入された。当時の「天皇の軍隊」は、日本人だけではなく、植民地朝鮮・台湾人などを編成した軍隊であった。
 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して主権が回復すると、日本政府はただちに旧軍関係者への援護にのりだした。まず、4月30日に、公務上の負傷もしくは疾病または死亡に関して「国家補償の精神に基き」、軍人・軍属であった者またはその遺族を援護することを目的とした「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を制定した。この法律は4月1日に遡って適用されることになったが、「戸籍法の適用をうけない者は、当分の間、適用されない」とした。それは朝鮮人、台湾人を排除するためであった。4月1日の段階では朝鮮人・台湾人は日本国籍を保持していたからである。主権を回復した日本政府は、その出発点から戦争に動員した朝鮮人・台湾人ら旧植民地出身者を排除した援護体制を作ったのである。
 1953年8月には、占領下で恩給を廃止していた法令を廃止するという形で、軍人恩給が復活。恩給を受けとる条件は、日本国籍者であった。朝鮮人・台湾人ら旧植民地出身者は、1952年4月19日の法務府民事局長通達で、日本国籍をはく奪されていた。それにもかかわらず恩給法の改正にあたっては、旧植民地出身者に留意した措置はとられなかった。その意思があれば給付対象に合める条文など、付則で入れられただろう。「国家補償の精神」から、恩給の支払いをするのであれば、徴兵・徴用した旧植民地出身者の軍人・軍属への配慮も当然必要だったのではないのか。しかし、そうした政策はとられなかった。
 こうして、朝鮮人・台湾人の軍人・軍属は、恩給を受けとる資格を失った。さらに、占頷下では国籍に関係なく支給されていた傷病恩給も、国籍を理由に支給されないことになった。体に傷害を受けて働けなくなった軍人や軍属たちから、傷病恩給すら奪うことになったのである。

国家賠償を求める闘い
 
 これらの取り扱いはあまりにも理不尽で差別であるとして、1990年代に4件の裁判が行われた。海軍軍属として徴用され、マーシャル群島で負傷した鄭商根さん。同じマーシャル群島のウオッチエ島で負傷した石成基さん。海軍軍属として勤務している時に、インドネシアのバリックパパン沖合で負傷した陳石一さん。海軍に徴用されてニューブリテン島ラバウルで働いていたが、連合軍の攻撃で負傷した姜富中さん。
 当事者による闘いは、裁判所を動かした。判決はすべて原告敗訴であったが、東京高裁は1998年9月判決で「傷痍軍属たちは日本国籍をもっている者に準じて処遇することがより適切であり、『援護法』の国籍条項や付則を改めて、在日韓国人にも『戦傷病者戦没者遺族等援護法』の適用の道を開くなどの立法をすること、また、戦傷病者には、これにふさわしい行政上の特別措置をとることが『強く望まれる』」と指摘した。また、大阪高裁は1999年10月判決で「国会が、今後も何らの是正措置を行わず、その是正に必要な期間を経過したような場合」は「立法不作為が国家賠償法上の違法な行為と評価されうる」と指摘した。国が、国籍を理由にした在日の軍人・軍属への差別を続けている状態をいつまでも続け、これを是正しようとしないならば、国家賠償法上の違法な行為と見なされる、とまで述べたのである。
 東京高裁と大阪高裁の厳しい注文をうけて、国会は特別立法にむけて動きだした。2000年6月7日「平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族に対する弔慰金等の支給に関する法律」が公布された。在日の傷痍軍人・軍属とその遺族に、「人道的精神」に基づき弔慰金等を支給することを定めた法律である。それは当事者たちが求めた年金のような「国家補償の精神」にもとづいたものではなく、あくまで政府からの「見舞金」にすぎなかった。
 その内容は戦没者の遺族に対して260万円、戦傷病者の遺族にも同じ260万円、裁判を起こした原告たちのような本人には、見舞金200万円の一時金と特別給付金200万円を支給するというものであった。そして3年間の時限立法とされた。そしてこれですべて終わりとされた。今回の特別給付金からは引き続き排除されたままである。ちなみに、英国やフランス、ドイツなどは植民地出身の自国軍兵士に対しても、年金などを支給している。

敗戦80年「忘れられた皇軍」は忘れられたままでいいのか!!

 1963年、日本テレビのノンフィクション劇場で朝鮮人傷痍軍人を取り扱ったドキュメンタリー「忘れられた皇軍」が放送された。監督は故・大島渚である。翌年に東京オリンピック開催を控え、高度成長期に急速に姿をかえていく東京の街角で傷ついた身体をさらしながら歩く朝鮮人傷痍軍人たち。陳情を終えた彼らは、酒をあおった。軍歌を歌う。その最中に活動をめぐって口論も起きた。突然、ある人物が激昂し、サングラスを外した。眼球のない両目を指で開く。さらにシャツを脱ぎ、ちぎれた片腕をさらす。叫び声。眼球のない眼窩から落ちる涙。ラストにナレーションが言う。

「日本人たちよ、私たちよ、これでいいのだろうか。 これでいいのだろうか」

 朝日新聞が行った全国世論調査(2025.4.27)では、日本が戦争や植民地支配を通じて被害を与えた国や人々に、謝罪や償いを十分にしてきたかどうかについて「十分にしてきた」という回答が58%で、「まだ不十分だ」は29%だった。また、日本の政治家が戦争などで被害を与えた国に謝罪のメッセージを伝え続けるべきかについては、「伝え続ける必要はない」が47%「伝え続けるべきだ」が44%であった。
 ほんとうに「十分にしてきた」のだろうか。「伝え続ける必要はない」のだろうか。日本敗戦80年、日本社会は改めて大島渚監督のメッセージを噛み締めなければならない。この問題はこれからの日本の行く末に大きくかかわってくるからである。(高敬一)