10年ひとむかし、という言葉が日本にはあります。戦後の10年ごとに日本と朝鮮半島、そして在日コリアンにとって何があったのかをふりかえってみたいと思います。
というのは今から60年以上もまえ、1952年にはサンフランシスコ対日講和条約が発効、第一次日米安保条約が始動し、日本が独立を回復した年ですが、同時に在日は日本国籍を喪失したものとみなされ、以後、年金・健保・児童手当三法をはじめ、市民生活上の権利の殆どから排除されました。地方参政権もまた然りです。
外登法も施行され、指紋押捺制度も法制化されました。戦後日本社会における在日をはじめとする外国人に対する差別が法的にも、社会的にも体制化された年でした。時はまだ朝鮮(韓国)戦争のさなかでした。
1962年、韓国では朴正熙政権のもとで第一次五カ年計画が着手されました。在日の間では「協定永住」とそうでない人びととの分断状況が深まり、指紋押捺拒否闘争が火を吹きはじめていました。
1972年、沖縄返還と日中共同声明による日中国交回復があり、日韓関係でいえば、金大中拉致事件の前年、つまり韓国の軍事政権の支配が圧倒的であった頃です。また日本では李恢成が芥川賞を受賞し、暗い思いの日々を過ごしていた在日コリアン一筋の希望が見いだされた年でもありました。
それ以降、芥川賞、直木賞をはじめ、在日コリアンの人びとが文化面の活動によりナショナルレベルの表彰を受けることが相次ぎます。
またスポーツ界で活躍する人も戦後の第二世代、第三世代の間で続出する状況がそれ以後も続いています。
1982年、ベトナム戦争の傷痕として発生した大量の難民の受け入れをめぐって、日本政府が重い腰をあげて難民条約を批准し、それが発効しました。1979年に批准された国際人権条約とともに、在日の人権問題が検証される場が「国際人権」を基準としてやっとできました。
しかし個別の人権問題は障害者・高齢者の無年金状態ひとつとってみても依然として改善されず、裁判闘争に訴えても日本の司法当局は「立法府の問題」として耳をかさず、未だに店晒しのままです。
他方、この年、日本の歴史教科書問題が東アジアの人びとの指弾をあびました。「侵略」を「進攻」といいかえたことをはじめ、過去の戦争責任、侵略責任を覆い隠し、歴史の真実から学ぼうとしない、日本の文教当局者と一部の学者たちの姑息な態度が韓国・朝鮮、中国、台湾の人びとの心、そして在日コリアンの心をどれほど傷つけたことでしょうか。
この問題は、文部省(現、文部省)などの妥協により、一旦は修正解決をみましたが、近年の「自由主義史観」の持ち主たちによって、またもや反動的な教科書が発行され、一部の教育委員会で採択されはじめています。
1992年、韓国でははじめての民主的な大統領選挙によって金泳三氏が大統領に当選し、翌年就任しました。
日本では前年に「入管特例法」によって在日コリアンの「特別永住資格」が実現し、やっと子々孫々にわたって日本で暮らす法的地位が安定し、1952年から40年間の理不尽な扱いに終止符がうたれました。
しかし近年の排外主義者たちのように、この資格そのものを否定する動きもまた出始めています。
90年代には過去の植民地支配をめぐって93年の細川首相の記者会見を皮切りに、95年の村山首相の「談話」、また河野官房長官の「慰安婦」問題の責任を認めた発言など、日本政府の最高レベルでの過去の責任の自覚の発言が相次ぎました。
戦後40年以上たったとはいえ、やっと日本政府と日本人が過去に目を向けはじめた、というべきでしょう。
そして2002年、サッカーワールドカップの日韓共催が実現し、日本と韓国・朝鮮の間の新しい時代の到来をつげるような雰囲気が形成されはじめた。
また小泉首相の第一回訪朝により、拉致問題の着手と同時に日朝国交回復問題を日程にのぼせよう、とする試みがはじまりました。
この二つの問題は未だに進展をみせていませんが、日韓関係の更なる改善とともに日朝関係の正常化が諸問題の解決に繋がることを確認した点に意義があります。
このように60余年の歴史を背負いながら、新しい刻を刻んでゆく過程で日本人と在日がどう結びあえるか、を考えつつ、当センターは前進して参りたいと思います。
今後ともご支援・ご指導をよろしくお願いします。
1960年 |
同志社大学法学部政治学科卒業 |
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1986年 |
京都芸術短期大学教授 |
1994年 |
世界人権問題研究センター客員研究員・理事 |
2000年 |
京都造形芸術大学歴史遺産学科教授 |
2002年 |
京都造形芸術大学客員教授(現在に至る) |