内藤正中先生を哀悼す - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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内藤正中先生を哀悼す

【投稿日】2014年5月23日(金)

 嘗て、「内藤先生はオーソドックスな歴史家ではなく、きわめて、ジャーナリスティックな史家であり、警世家である」等と面前で述べたことがある。
鳥取短大北東アジア研究所退官の折、送別の宴席だったと思う。若輩の傲岸な発言だっただろうか。老師は、それを受け、「確かに自分は歴史の一次資料
をこつこつと読み解く歴史プロパーではない」が、それら歴史の諸問題に内在している、「おかしな」「間違っていること」を剔出研究してきたと謝辞で
言われたことを記憶している。

 私と内藤先生の出会いは、90年代初頭鳥取県立図書館環日本海交流室周辺だった。そこに勤務していた姉を介して知己を得た。鳥取短大に来られる前か
ら、山陰では咫尺の間たる松江での活躍とその秀でたオルガナイザーとしての噂は仄聞していた。鳥取図書館での発言も「『県史』の中で江戸期大谷・村
川鬱陵島漂着事件及び、安龍福事件への記述踏み込みが足らぬ。」「近代史での奥田・徳田兄弟による朝鮮半島トロール漁業による収奪を鳥取県が顕彰と
は、何たるこか」等、警抜なものだった。日韓関係で、喉に刺さった小骨のよ うな「竹島独島問題」を積極的に研究され始めたのもその当時だっただろう。

 竹島関連の日本側資料を博捜されていたのは当然だったが、安龍福英雄伝説がまだ強固その国民的エートスを形成していた韓国側資料において、日本語訳
を、時(95~97年)の鳥取大学韓国人留学生(忠南大学日語日文の短期留学生)に不肖を仲介させて行い、その畑違いの歴史資料ゆえのチグハグな翻訳文を
使い、分析と相対化の過程から結構な論攷をものにされていたのも懐かしい転々今昔の感の中、多くの想い出があるが、我が鳥取民団「在日講座」にも一再
ならずお出で戴いた。その「竹島問題」の講座において、レジュメ資料を一度も見ないで一時間の講演をされ驚嘆をして聴きいったことを記憶している。大
学での講義を彷彿とさせるものであったが、そこには、昨今のパソコンを使用して、プリコラージュならぬ資料やその他の研究論文をパッチワークよろしく
乱造する凡百の歴史研究者にはない、一つの歴史事象をとっても、しっかりと推敲を重ね、自己の身体へ引きつけた言わば内藤史観と思われる姿勢と言説が
見られる。

 そして付言する迄もなく、近代日韓(日朝)関係史の「あるべき」「正しい」歴史認識が通底している。よく、「民団の幹部とは言え、屑屋のオヤジがよ
く勉強しているな」とからかわれた。その在日が、単に歴史の領域に豁然と蒙を啓かれたのみならず、鳥取の在日自身が編まねばならなかった、戦前・戦後
の在日史を「山陰の日朝関係史」等で遺して戴いた。此処に哀悼の意を表すると共に深甚なる感謝を捧げ、御冥福を祈りたい。

在日本大韓民国民団鳥取県地方本部 団長 薛 幸夫

※内藤氏は、鳥取藩が1695年に幕府に対し、竹島は鳥取の土地ではないと回答した文書を発見し、竹島は日本固有の領土ではないと主張してきた。2012年に逝去。