市立尼崎高校バレー部体罰事件 人権教育はどうした!① - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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市立尼崎高校バレー部体罰事件 人権教育はどうした!①

【投稿日】2019年7月19日(金)

 市立尼崎高校の男子バレーボールの体罰問題が世に露わになった(2019/5/16)のは、『Sai81号』掲載の「本名宣言、あれから42年の座談会」を収録し終え、編集校正に入っている時だった。座談会参加の市立尼崎高校(以下市尼と略)在日コリアンのOBGたちは「どうなってるの」と問うて来た。市尼を定年退職して15年経つ私は、今や完全に外部の人間であり、答えようがなかったが、外から見ていて、市尼が培ってきた人権教育の形骸化、もしくは衰微を想わざるをえなかった。大阪市立桜宮高校で、体罰指導が原因の生徒の自殺門問題が生じて久しい(2012年)。もはや体罰指導など許されない。指導の効果も疑問視されている。ましてや、市尼は人権教育において世に知られてきた学校である。それがしっかり取り組まれているときは、教員に対して、また生徒に対しても、体罰、暴力、いじめ等々、そのような一連のトラブルを発生させぬ「自主規制」が働いた。体罰が皆無であったというのではない。それに近いことはあった。しかし、今回のように、バレー部の部員生徒がコーチによって殴り倒されて、しばらくの間、意識が戻らずというような事態はありえなかった。後に記すように、市尼の人権教育は「差別をゆるさず、生徒一人一人を大切にする」が合言葉であり、それが校内倫理だった。そこからすれば、今回の事件は想像だにできないことなのである。しかし現実は違っていたのだ。

 校長の謝罪の言葉に「『人権侵害』と言われても仕方がない」があった。彼のこの言葉の中に、かっての市尼人権教育の「片鱗」をみる。これまで全国津々浦々、教師による体罰問題は枚挙にいとまがないが、一連の謝罪会見で『人権侵害』という言葉は出てこない。だが、「人権侵害」という感覚が、代が変わる中で、吹き飛んでしまっていたのだろう。しかし今、振り返れば、このような事態になる兆候は潜在していたと、長年、そこに勤務した者として自戒をこめて言わざるをえない。

 市尼の人権教育は、1973年、授業中の教員の部落差別発言(結婚をめぐる)に対する学校隣接の被差別部落出身の市尼生徒、青年、親たちからの糾弾から始まった。当初は、教員と生徒のホームルーム学習討議が毎週ひらかれていた。それを年2回の全校一斉ホームルーム人権学習というシステムに切り替えた。1976年からは前期に部落差別問題を、後期に在日コリアン問題を、前期後期両方にまたがって、障碍者差別問題を取り上げた。活字や映像での学習だけでなく、生の被差別の立場の生徒らの発言、立場宣言、訴え、討議の中で、互いの生活土台から、自分を見つめ友を理解する人権学習の取り組みは、多くの成果を生んだ。
 この人権教育システムを統括するのが、学内の解放教育推進委員会(後人権教育推進委員会)であり、各校務分掌(学年会・生徒指導部・進路指導部・保健部・図書部・総務部)から一名ずつの委員、部落解放研・朝鮮文化研究会の顧問から成り立っていた。糾弾主体の部落解放同盟との情報交換は顧問を通して続けられ、部落出身生徒や在日コリアン生徒の集まりを促進した。また教職員の人権学習は年2回、学校内外から講師を迎えて実施した。著名な人物では作家の土方鉄さん、在日牧師の李仁夏さん等々。

 人権教育の内実が問われるのが、被差別の立場の生徒の進路保障であるが、とりわけ就職指導は、選択の商業科目の備えもあり、市尼の長年の企業とのつながりも功を奏して、糾弾以前よりも前進した。企業側も同和研修が義務付けられ(学校に提出する求人票には職安の同和研修認定印がおされていた)、人権に配慮した職員採用人事を行っていた。(つづく、藤原史朗)