オリンピックに思う/ 国籍と人間もしくはルーツ - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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オリンピックに思う/ 国籍と人間もしくはルーツ

【投稿日】2021年9月14日(火)

 菅首相が「安心安全」と吹聴し、専門家たちの忠告を無視して強行したオリンピック。感染対策分科会の尾身会長の予言通り、コロナ感染者は爆発的に増え、累計137万人、死者は1万5千人を越えた(8/26時点)。福島原発事故による放射能汚染を安倍前首相が「アンダー・ザ・コントロール」にあり、と豪語したデマゴギーと同じである。アジア太平洋戦争中の、敗北とは異なる大本営の「戦勝」報告を想起させる。

 大戦中、戦車隊の兵であった司馬遼太郎が、作戦指令があれば、目前に一般市民が逃げ場を求めて右往左往していようとも、戦車は民衆を引き倒しても進まねば成らない、それが国家である、と自己体験を踏まえて語っていた。私には、オリンピック選手たちが、駆り出された兵士たちのように思えた。 

 だが、この選手たちのことを積極的にとらえれば、とりわけ日本の選手たちを見てみると、1964年東京オリンピックと違うものがある。それは重要な役割を果たしている選手たちが、様々な民族的・人種的ルーツを持つ「日本国籍」のメンバーであったことである。1964年のおりも、彼/彼女が、外国ルーツの選手という噂はあった。しかし、今回はそのルーツが顕在化した。旗手の八村塁然り、聖火最終ランナーの大坂直美然り、柔道100㎏のウルフ・アロン然り、女子バスケットのオコエ桃仁花然り、挙げればまだまだ在る。もはやいわゆる「日本人」の選手で、競技は戦えないのである。

 そして今や、京都国際高校の全国高等学校野球選手権大会における大活躍である。取材した某新聞記者によれば、全校生徒の3割が、韓国朝鮮にルーツをもつと言う。チームの選手の国籍は全員日本。チームは何処まで勝ち進むか(準決勝で敗退)。民族名は無かったが、そのかわりに2度の勝利で、ハングルの校歌が甲子園に流れた。国籍はともあれ、選手らが民族名のまま登場する日が来るのではないか、と私は想う。国籍がどこであろうが、私は「わたし」であり、なまえは1つである。そこに歴史が凝縮されて在る。(藤原史朗)