寄留の民 −第九交響楽を伝えた人々− - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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寄留の民 −第九交響楽を伝えた人々−

【投稿日】2013年2月11日(月)

尖閣諸島(魚釣島)、竹島(独島)領有権問題、北朝鮮による再度の「人工衛星」ミサイル発射、アルカイダによるアルジェ派遣の日本人を含む外国人労働者の殺害…等と、一触即発になりかねない事態が続く。

そのような国際状況下、ややもすればひび割れそうな「多文化共生」の世界について考えてみたい。

1970年代からおよそ30年間、在日コリアンをはじめとする在日外国人の人権獲得の指導的役割を担ってこられた故李仁夏牧師の名著に『寄留の民の神学』がある。その根本にあるのは旧約聖書レビ記19章33節・34節の言葉だ。

「寄留者があなたの土地にすんでいるなら、彼を虐げてはならない。

あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。

なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。

わたしは、あなたたちの神、主である。」

この約2500年昔の言葉を彷彿させるような出来事が、四国徳島の一隅で起きた。

時は1914年、第一次世界大戦に参戦の日本軍5万に敗れたドイツ軍兵士4000名が中国青島から日本に送られて来た。

その内1000名が徳島の板東に設営された俘虜収容所に入れられた。

彼らは祖国敗戦までの3年数か月をここで暮らしたのだが、様々な文化を地元に伝え残した。

ドイツパン、ケーキ、ハム、ソーセージ、石組みのドイツ橋、楽器、ドイツ体操、オーケストラチーム、元俘虜の大阪外国語専門学校(後の大阪外大)教授、日独の貿易商社等。中でも、その最たるものが、日本で初めてのベートーベン第九交響楽の演奏である。

一般的に、俘虜たちの仕事といえば、強制労働による土木工事とか鉱山での採掘、森林伐採とかが多い。

なぜ板東俘虜収容所では、土木工事以外に、否それ以上にこのような文化的なものが惜しみなく残されたのか。

それは何よりも、俘虜に対する処遇が寛容であったことによる。

なぜ寛容だったのか。

その理由の1つは、欧州を主な戦場とする第一次大戦は、元老井上馨が大隈内閣に、「これは『天佑』である、これを機に東洋における利権を確立せよ」と言ったように、漁夫の利を得た戦勝国日本に一定の余裕―と言っても物的には相当の負担だった―がありジュネーブ条約捕虜の虐待禁止を順守したことである。

ちなみに戦死者の数をあげると、独露仏墺はいずれも100万単位、英伊は100万未満であるに対して、日本は300人たらず。ならば徳島以外の他の収容所でも同じような結果がうまれてもよいのに、そうはならなかった。ここに第2の理由がある。徳島板東収容所長松江豊寿の俘虜に対する基本的な姿勢が他の収容所と違っていた。

彼は俘虜たちが敗北の将兵であっても「囚人」と見なさず、またそのようにとり扱わなかった。したがって俘虜たちの外部への出入りは自由であり、村人との交流も認められた。ドイツ兵らは手作りのビールを収容所内に設けたバーで飲むことも許された。

わずか5000人の板東村に1000人のドイツ兵。村人と兵士らは、6人に1人の割合で4年近くの「共生」生活を送ったことになる。

松江所長のこのようなヒューマンな姿勢の背景に、戊辰会津戦争の体験があるといわれる。

会津藩士の少年であった彼は、地獄絵のような戦争を体験しただけでなく、戦勝の薩長土肥が牛耳る明治政府の会津に対する差別的な施策の下に生きねばならなかった。

会津藩士は敗北の将兵であっても囚人ではない。この自己認識と誇りが、彼をして職業軍人たらしめたであろうし、俘虜のドイツ将兵に対してもさし向けられ、彼らを管理する基本姿勢になったといわねばならない。

1918年11月、ドイツ三国同盟側の降伏でこの世界戦争は終結した。徳島板東のドイツ将兵たちも帰国することになる。

その時に、彼らは世話になった板東の村人と収容所の日本人将兵へのお礼として、ベートーベンの第九交響楽を演奏した。人々は歓喜して聴き、手を打ち、見よう見まねで唱和したことだろう。

文化は、人間が人間として出会い、交わり、認め合うところから生まれ、新たな生活が始まる。

日本における初めての第九交響楽の演奏は、このようにして生まれた。演奏したのはドイツ兵たちだが、彼らにそれを演奏させる思いに至らしめたのは、松江らや村人たちである。この両者が、この交響楽を日本に伝えたのだ。

先に紹介した、故李仁夏牧師の心を捉えて離さなかったであろう旧約聖書レビ記。その34節に続く35節には、

「正しい天秤、正しい重り、正しい升を用いよ。わたしはあなたたちをエジプトの国から導きだした神、主である」

がある。寄留の民を対等に自分自身のように愛せよと高められた倫理は、日常生活における公平公正の倫理を促進する。

しかし俘虜たちがドイツに帰国してからの日本とドイツの、その後の歴史の歩みはどうであったか。

徳島板東の一隅に芽生えた民族共生の輪と精神は、ことごとく否定された歩みとなる。

「正しい升」の使用にはならなかった。にもかかわらず、今や町となった板東の市民たちは、ドイツ兵たちが残したものを、滞在中亡くなった兵たちの慰霊碑とともに守り続けている。

この一大メルヘンのような出来事が、映画『バルトの楽園』となって世に知られるようになったのは、2006年である。バルトとは松江の口ひげを意味する独語。

私は伴侶と共に、ロケーション用に建てられた「収容所」を訪ねた。閉館寸前の夕暮、収容所の門柱のそばに1人の少年が立っていた。学習塾へ車で送ってもらうためにお母さんを待っているのだと言う。

私たちをガイドする旧ドイツ水平装束の若い女性が、その子の母だった。

遅くに来所してご免の思いで、ガイドを途中でお断りし、足早に見学して帰路に着いた。

日独の市民の交流を記念して建立されたドイツ館の塔が夕映えに輝いて見えた。(F)