「李朝」は朝鮮王朝を表する称号にあらず - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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「李朝」は朝鮮王朝を表する称号にあらず

【投稿日】2017年2月9日(木)

 周知のごとく朝鮮王朝は朝鮮半島において、518年間続いた中世封建国家である。
 高麗時代末期、易姓革命に従い最後の王・恭譲王より「恭しく譲る」という意味を込めて政権が移行され、1392年、李成桂の王権が成立した。
 以後、新興儒学者たちと両班を中核にした封建国家・中央集権的官僚体制が築かれた。時代は中国との宗主関係にあり、国号を明に伺うにあたって「朝鮮」と「和寧」を提示した。時の皇帝・洪武帝は「ただただ朝鮮の称こそ美しく、その由来するところが遠い。その名を本とし、これにのっとり、天を体して民を牧(ぼく)し、永く後(こう)嗣(し)を昌(さか)えしめよ。」とのべた。李成桂は国号を「朝鮮」と改定し新しい時代が始まった。

 また朝鮮は古代には建国者の名を冠した「壇君朝鮮」「箕子朝鮮」「衞満朝鮮」があった。これらには『静かな朝の国』『鮮やかなる朝の国』東方では朝鮮半島の自然が最も美しいと称され、それに由来するところが多い。

 しかし周知のように1876年江華島条約(朝日修好条規)を契機とし、1910年8月22日「韓国併合に関する条約」締結と共に朝鮮は日本に強制併合された。併合直前に、ときの内閣総理である李完用は寺内正毅統監との間において、朝鮮王朝皇室の処遇を巡っての交渉があった。李完用は唯一の希望として「韓国」の国号と「王」の尊称を残すことを申し入れた。だが寺内は日本の天皇の配下に置くべく王称を認めると将来的に「朝鮮王」を名乗る危険性があると考え、韓国皇室の姓であ

る「李」を付けた「李王」とし、地域名は「朝鮮」とした。だがその前に1895年日清戦争後日本の勝利に伴い、下関条約で清が朝鮮王朝の「独立自主」を承認したのを受け、第26代国王・高宗は1897年に朝鮮を改め「大韓」「大韓帝国」とし「自主独立の帝国」と宣言していた。
 それまで歴史的に中国を宗主国と崇め、冊封下にあったことからの独立を意味するものと考えられる。しかしこれはほんの一時期であった。

「韓国併合」後、朝鮮は日本の支配下におかれ朝鮮総督府が支配した。旧大韓帝国皇帝は「李王家」という「家」を創立させられ、日本の王族のひとりとされた。完全に日本の天皇の下に位置した王族であり、高宗は「李太王殿下」「李王」と称された。
 以後、36年間朝鮮は日本帝国の法すら施行されず、他方では帝国臣民の仮面を強要された。立法・司法・行政・軍事の権限は天皇に直属し、総督府は朝鮮人に沈黙と服従を強要した。
 しかし、全ての朝鮮人の生存権が日本帝国の手中にあっても、反日義兵闘争が各地で広がり抵抗運動は活発化していった。

 当時、日本帝国支配下における朝鮮に対する歴史観は、朝鮮を日本帝国の「一地域」とし国家としての扱いではなかった。朝鮮王朝は国家として認められず、朝鮮王朝時代を指すときは「李朝」という表記が主として使われてきた。
 これらは日帝の御用学者が定めた差別的且つ蔑視的呼称であり、中世の朝鮮国の存在を無視又は軽視する文言である。

近年韓国近代史研究家たちの間では「1945年8月15日、日本帝国の敗戦と同時に解放された朝鮮民族は、自身の歴史を取り戻し独立した」ことによって周辺国に対し、歴史認識を改めることを主張してきた。同時に朝鮮王朝を一時期「李朝」と表されてきたことにも、正しい称にすべきであると主張した。これを受けて日本の歴史学研究会をはじめ研究者の間では「李朝」とは表現していない。また、日本の文科省検定の教科書においても概(おおむ)ね「李朝」ではなく朝鮮又は朝鮮王朝という文言を用いている。

 以上の事を鑑みても「李朝」という表記は朝鮮王朝、あるいは朝鮮時代を表する正しい称号にあらずと云えるのではないだろうか。(盧桂順・理事、大谷大学)