市立尼崎高校バレー部体罰事件 人権教育はどうした!③ - 一般社団法人在日コリアン・マイノリティー人権研究センター

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市立尼崎高校バレー部体罰事件 人権教育はどうした!③

【投稿日】2019年9月6日(金)

市尼に新たな校舎が落成されていく中で、普通科と並んで体育科が設置されるという案が市教委との間で生まれていた。特色ある学校作りの路線。しかし学内で職員の同意と協力が必要。職員に対する根回しがなされていたと思うが、体育科設置に一番の疑問を呈してくるのが、わたし(筆者)であろうと想定した管理職が話をかけてきた。常々、ハングルを選択科目に入れよと主張していたものだから、ハングルを設置するから体育科設置に同意してもらいたいと。定年退職まで数年しかない自分を考える時、わたしは同意した。すると校長は、意外にも中国語も入れよと言ってきた。わたしは喜んで了解した。中国語の講師は市教委側が用意したが、ハングルに関してはわたしが推薦する人物をお願いしたいと申し入れた。学校でハングル開講は単に語学だけの学習にはならないと判断したからだ。
 2000年に全県一区(兵庫県下どこの地域からも受験可能)の体育科が設置された。この企画の中心になったのが、かってともに人権教育推進委員会を担ったことのある、今や教頭となった人物。体育科設置に指導教員も体育クラブも実績があった。市尼はかって女子バレーで全国ベスト3になったことがある。女子の体操は毎年全国大会に出場、オリンピック選手候補になった生徒も出た、男子軟式テニスも毎回全国大会に、硬式野球は夏の全国大会に一度出場、2回戦まで進んだ。その中に、ヤクルトの4番バッターを務めた池山がいる。後に、やり投げの日英ダブルのオリンピック選手も出る。
 大学受験私学有名校に遅れをとった県立高校が、それに負けじと受験力アップをやり始めた。セブントウセブン朝7時から夜7時まで受験勉強にかりたてる学校が現れた。管理主義と受験競争体制の強化である。(その行き過ぎが、神戸高塚高校の女生徒校門圧殺死事件。)
 このような動きに比べ、相対的に、市立高校は下降ぎみであった。そこで受験とスポーツでトップを目指し、私学の再生を志向した大阪清風高校などを参考にして普通科・体育科併設を目指した。すでに県立の社高校が体育科を併設していた。財政赤字と地盤沈下に苦慮する尼崎市にとって目玉商品が求められた。教育は政治家が議場でとりあげる一番てごろなテーマ。市尼は市立高校。市行政・市教委がもろに口出し可能である。建物も落成、第1グラウンドは夜間照明灯付、第2グラウンドも整備され、学校からそこに通う市尼専用バスも備えた。市尼出身の古参市会議員は「いつになったら甲子園に出れるんや」とはっぱをかける。受験成績向上、スポーツ日本一を目指せ。いずれも生徒らに共生ではなく競争をあおるものであり、教員自身、その競争に自らを見出そうとしていく。大阪の桜宮高校も市立であり、当時維新政党を立ち上げた橋下市長が、大阪市の教育界にこの手の競争をあおるような諸政策を始めた。桜宮高校もその波に乗ろうとしたのではないか。人権教育は、受験勉強オンリーの教育とは異なる共生の原理の上にたっている。受験教育は必然的に他者を蹴落として狭き門に入るを目的にするとすれば、人権教育は逆に蹴落とされゆく者をいかに支え共に前に進むかにある。切磋琢磨と言う言葉は互いに鍛え合い、共に前進するを意味するのであり、友を蹴落とすことではない。

 今回の体罰問題は、バレー部コーチが全国大会初優勝を勝ち得たがゆえに、ますます功を急ぐ中での暴挙といわざるをえない。世代も変わり、かって被差別部落の生徒や親たちから教員の差別体質を糾弾された体験を持つ者は皆無である。「差別を赦さず、生徒一人一人を大切にする」人権教育の理念はどこへやら。体育科設置の間もない頃、新人の柔道専門の体育教師が、わたしに返した言葉を忘れることができない。それは何か。川西市から通学する在日の柔道部の女生徒がいた。彼女に朝鮮奨学会の申請と同胞の会への参加を勧めて欲しいと言うと、彼は「あの子はそれが目的で市尼にきたのではありません(柔道が目的)」と私の言葉を遮った。

 体罰問題が生じるには、人権教育無視というだけでない体育科のシステム自体の問題がある。それは、体育2クラスの置かれた密室的状況である。体育科入試は、内申書と実技である。学力は普通科にまさるとも劣らぬレベルだった。授業を1年間受け持ったが、生徒らは礼儀正しくやりやすかった。彼らは入学と同時に、体育クラブのどれかに所属せねばならない。カリキュラムもそのようにつくられている。したがって、所属のクラブを辞退すれば、他のどれかに入らねばならないが、それを断れば、体育科を辞することになる。したがって市尼をやめなければならなくなる。

 こうなると。体育科教員の権限は生徒に対して絶対的になる。教室もホームルームもクラブも三位一体であり、体育科生徒には抜け道はない密室となる。たとえば、今回のバレー部を例に考えてみれば、仮に担任が体育の教員でバレー部監督であったとしよう。監督の意に添わぬと、担任の意に添わぬことになり、監督の意に沿って動くコーチ(非常勤講師か?)は副担任的な存在であり、二人の指導者の眼下から脱することはできない。新聞記事にあった他校の元選手の証言を引用すれば「たたかれるときはハイと返事をしなければならない。パチン ハイ パチン ハイが延々と続いた」(2019/6/24朝日)である。勝利という大目的のために、監督コーチ の暴力的制裁が容認される。旧日本軍の天皇制の威を借りた暴力的制裁と基本的に同質である。

 加えて、市尼の場合、併設体育科以前から、体育教科は別院的な存在だった。他教科の研究室は教科「準備室」であるが、体育館に隣接する体育教科の準備室は、体育科が設置される以前から、体育「教官室」である。戦前からの名称が存続しているのは何故か。体育教科の教員は、校務分掌において生徒指導部担当が多い。学校風紀、学校行事、等において生徒指導・管理の実働部隊として働き、学校管理職は彼らの働きに常に一目を置く。こういう別院的特権的な位置が、自他ともに「教官」という古い名称を認めてきたのであろう。

 以上、市尼バレー部の体罰問題を、体罰是非論ではなく、市尼自身が培ってきたはずの人権教育の流れから、かってそこに与した者として、問うてきた。最近、この事件に関与した校長以下の処分が市教委から出された。校長教頭は解任され市教委事務局へ配転減給1か月、バレー部監督は減給3か月、同コーチは73日間停職、硬式野球部部長減給3か月、コーチ減給1か月(バレー部問題の後、訴え・アンケートで発覚)。

 では今後この問題をどう総括し、市尼体育科の改革につなげていくのか、専門家の委員会(教育専門家と弁護士)を設置し諮問を願うという。しかし、その前に、徹底した教職員間のこの問題についての討論が求められるのに、それ抜きの管理職配置転換、専門家委員会の設置というやり方は、過去玉置君に対して行った障碍者差別入試事件の学校としての総括無しのやり方の再現に等しい。

 最後に、今や部外者のわたしだが、具体的な提案をしておきたい。①被害にあったバレー部部員へのケアー。それにはクラスの生徒とバレー部部員のサポートが不可欠、②学校全体で人権教育の見直しと再生をおこなうこと、③体育科は人権教育とは無関係、というような悪しき空気を改めること、④教室(授業)・ホームルーム・クラブ一体化のシステムに、一定の自由な空間を与えるべき。クラブを辞めたいとする生徒の駆け込み寺の設置を。⑤全生徒対象のカウンセリングセンターの設置を(生徒指導上の体罰被害を訴えることが可能)。藤原史朗